【Keyman/ヒストリー】金融庁・中島長官に聞く〝仕事の流儀〟(前編)
2022.10.03 04:42ビジネスの場では、思わぬ事態に遭遇したり、重圧にさらされることも少なくない。そんな時、国内金融のキーマンはどのような姿勢で難局と向き合ってきたのか――。金融庁長官として、金融行政のかじ取り役を担う中島淳一氏に、キャリアの転機となった出来事や、仕事を進めるうえで気を付けていることなどを聞いてみた。ニッキンONLINE創刊1周年企画として、今日と明日(インタビュー後編)の2回に分けて特別インタビューを掲載します。(聞き手=国定 直雅)
――金融行政に携わってきたキャリアの中で、転機になった仕事や、印象に残っている時期を教えてください。
印象に残っているのは、(30代だった)1990年代後半から2000年代初め。バブル経済崩壊後の金融危機の時期だ。大蔵省(現財務省)の銀行局や金融企画局、金融再生委員会、そして金融庁の発足時も、ずっと金融行政に携わっていた。
当時は、金融機関の破たん処理の法律がまだ整備されていなかった。そんな中で、山一証券の自主廃業や、北海道拓殖銀行など金融機関の破たんが続いた。その後、公的資金を金融機関に入れられる法律ができた。さらに、特別公的管理という枠組みができて、日本長期信用銀行(長銀)や日本債券信用銀行(日債銀)の処理もあった。その頃に整備した破たん法制が非常に強く印象に残っている。
ただ、実は同じ時期に、前向きな政策も手がけていた。「金融ビッグバン」と呼ばれた金融システム改革の法案も、同じ1998年の国会に提出した。その後も、金融商品販売法と呼ばれる新規法案を2000年の国会に出した。これは、銀行・証券会社・保険会社などの業態の垣根を越えて、金融商品を販売するすべての業者を機能別・横断的に規制するものだった。
つまり、バブル経済崩壊後の混乱期に破たん処理だけをやっていたかというと、実は必ずしもそうではなかった。将来に向けた制度整備も同時に進めていたことを考えると、金融行政の転機となった時期だったと思う。
――銀行で投資信託を窓口販売できるようになったのも、金融ビッグバンの時でしたね。
当時、間接金融(銀行融資のように、貸し手と借り手の間に仲介業者が入る金融形態)に依存しすぎているという問題意識から、もっと直接金融(出資のように、資金の出し手が受け手に直接供給する金融形態)を使おうという議論があった。そのため、2000年には「市場型間接金融」(直接金融と間接金融の中間的な資金調達方法)としてREIT(不動産投資信託)などの集団投資スキーム制度の整備をやった。受託者責任や金融教育の必要性などの議論も、すでに当時からしていた。
――それから既に20年以上。「貯蓄から投資」へという政策意図が国民に浸透するには、やはり相当な時間が必要なのでしょうか。
バブル経済の崩壊以降、株価が低迷し、国内経済もデフレが続いた。そのため、投資をしても成功体験につながらず、むしろ安全な預金が選好された。そうした市場・経済環境の影響も一因だろう。アベノミクス以降は環境が好転したが、その後も「貯蓄から投資」への動きが大きく進展したわけではないというのが、今の実感だ。
――長官は数多くの法整備に携わってきた経験をお持ちです。利害調整や法案審議では難しい局面もあったと思いますが、法律づくりで留意している点は何ですか。
金融自由化が進んだ金融ビッグバン以降、いろんなことができるようになり、民間で新しいアイデアが出てきた。そのため、役所が世の中の動きに先駆けて法改正をするというよりも、利用者保護を図りながら、新しい動きを健全に発展させることを目的とする法改正が多い。最近では、フィンテックや暗号資産、(コンピューターを駆使して1秒間に数千回もの高頻度で株式の売買注文を繰り返す)高速取引などがそれに当たる。イノベーションと利用者保護のバランスをどう取るかだ。
(銀行法や保険業法など業態別に法律を定めた)業法を前提にすると、伝統的な分類には収まり切らない新しいビジネスが出てきた時に対応しにくい。だから、今後は、機能別に法律を作っていきたいと考えている。例えば、金融商品の販売・勧誘ルールであれば、銀行であっても証券会社であっても保険会社であっても、そろえるのが理想だ。そうした機能別・横断的な法制の考え方は、約20年前の金融審議会(金融庁が事務局となって有識者に金融法制のあり方などを議論してもらう会議体)の報告書にも盛り込まれているが、今のようなイノベーションの時代にこそ、それが求められている。
――最も思い出深い法案は何ですか。
昔の法案でいうと、1998年に施行された金融再生法だ。長銀や日債銀の破たん処理に用いた特別公的管理という手法を定めた法律だった。実は政府で作った法案ではなく、議員立法として提出された野党案を丸のみする形で成立した。国が銀行の株式を強制取得して、銀行の権利をすべて握るという内容で、最初に見た時は「憲法違反にならないか」と心配した。ただ、野党案の作成者も深く勉強されていて、スウェーデンに銀行国有化の例があった。与党側の意見も取り入れられて必要な部分は多少修正を加えて成立し、結果的にその法律が金融危機の深刻化を防ぐことになった。当時、私は大蔵省金融企画局信用課の総括課長補佐を務めており、政府案として提出した預金保険法改正案をひっくり返される形となったわけだが、今でも強く印象に残っている。
中島 淳一(なかじま・じゅんいち)
神奈川県出身、59歳。1985年東京大学工学部卒、大蔵省(現財務省)入省、2018年7月金融庁総合政策局総括審議官、19年7月企画市場局長、20年7月総合政策局長、21年7月金融庁長官。