Nikkin金融講座 金融入門(2)金融の歴史をフラッシュバック(1)
2023.10.13 04:01
最古の借用書は粘土板
ビールの発祥は紀元前3000年頃のメソポタミア(現在のイラク)です。収穫された麦の4割がビールの原料になりました。街の酒場ではツケで飲むこともできたようです。ハンムラビ法典には、酒代のツケの支払い方法として、銀ではなく穀物で受け取るべし、という記述があります。
メソポタミア文明は世界で初めて文字を発明しました。楔形(くさびがた)文字が刻まれた粘土板は今でも50万枚以上が残っています。その中から借用書も発見されました。世界最古の金銭消費貸借契約の記録です。ハンムラビ法典には貸借の利子率を定めた規則もあり、銀での貸借は20%、穀物は33.3%でした。穀物の方が高い理由は、メソポタミアでは小麦の収穫率が高く、一粒の麦が収穫期には数十倍にもなったからでしょう。
メソポタミアには貨幣がなく、貨幣代わりの銀の単位は重量でした。最初に貨幣が発明されたのはギリシャ時代。小アジア西部に栄えたリディア王国(現在のトルコ)で造られた「エレクトロン貨」です。素材は金と銀の合金でした。リディアの首都は、砂金の豊富なパクトロス川の河畔に位置し、東西交易路の要衝でもありました。
銀行の起源は「ベンチ」
ギリシャの都市国家(ポリス)では、当初の貨幣はポリスごとに造られました。ポリス間の交易では多様なコインが行き交うようになり、両替商が登場します。また、当時のギリシャには多様なローンもあり、特に不動産担保ローンの記録が多く残されています。
珍しいところでは「冒険貸借」というローンも盛んでした。船主が船舶や積み荷を担保に資金を借りる契約です。航海が成功すれば利息をつけて返済する一方、船が沈没するなど失敗した場合は債務がなくなる仕組みでした。海上保険の起源とも言われています。
こうした古代ギリシャの取引を銀行のルーツとみなすことも可能ですが、近代的な銀行の起源は中世イタリアの両替商というのが定説です。店の前に置いた取引台は「bench」と呼ばれ、イタリア語の「banco(銀行)」や英語の「bank(銀行)」の語源となりました。通常は取引台に金貨や銀貨を山積みにしていましたが、ヴェネツィアでは机の上に帳簿しかない両替商もいたそうです。当時すでに、現金なしでの為替手形の決済や口座間の資金移動も可能でした。
イタリアの両替商は十字軍への援助をきっかけに欧州の主要都市に進出し、後の銀行業の母体となりました。北イタリアのメディチ家や南ドイツのフッガー家は、両替商から銀行家に転身した典型例です。
オランダは証券取引の祖
欧州では、13世紀頃には会社の株式の売買が見られるようになりました。しかし、当時の株主は基本的に「無限責任制」でした。会社が倒れた場合、株主は出資金を失ったうえに、債権者から損失補償の請求があれば追加で支払う義務があったのです。そのため株式を売却する際には、買い手にいざという時の支払い能力があるかどうかの見極めが必要でした。つまり、株主になれるのは一部の大金持ちに限られていました。
それを変えたのが、1602年に設立されたオランダ東インド会社です。近代的な株式会社の祖とされる理由は「有限責任制」にあります。株主は出資額以上の損失を出さなくて済むようになり、同社の株式は代金さえあれば誰でも買うことができたので盛んに取引されました。同社設立と同じ年にアムステルダム証券取引所も誕生しています。株式取引が行われた世界最古の取引所です。
アムステルダムの取引所では、現代に近い種類の金融商品が取引されていました。株式、為替、海上保険、商品、先物取引などです。オランダ名物のニシンの塩漬けは漁獲前に取引されるようになり、先物取引が生まれました。
その後、株主の有限責任制は19世紀の米国で制度化され、本格的な普及期を迎えます。資産家でなくとも株式を売買できるようになったのは、金融の長い歴史の中ではつい最近のことなのです。
日本金融通信社編集局 国定直雅
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